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「もうひとつ大事なことを云っておきたい。それは「殺すな」が「殺せ」を前提として存在する原理である以上、そして「殺せ」が積極的な行為である以上、「殺すな」もまた「殺せ」にまっこうから対立し、それを押しつぶそうとする積極的な行為であるということだ。逆に積極的な行為を前提としない「殺すな」は原理として成り立ち得ないし、それほどの力をもって「殺せ」とせめぎあわない「殺すな」は「死ぬな」であり得ても「殺すな」ではない。「殺すな」が「死ぬな」とはちがった次元に立つ原理であることは云うまでもないだろう。 「殺すな」が「殺せ」と積極的にせめぎあう行為の原理であるのに対して、「死ぬな」は「死ぬ」という人間の不可避的な運命に積極的にせめぎあうことのない祈りであり、より適切にはあきらめなのにちがいない。「殺すな」が「殺せ」と行為の現場でせめぎあわないかぎり、それは「殺すな」ではすでにないことだ。あり得るのは、ただの「非暴力的無抵抗」であり、「非暴力的無行動」だろう。戦後の三〇年間における私たちの「殺すな」の歴史のなかであきらかに認められるのはこうしたことのありようだが、このありようは「平和」と「反戦」がただの祈りの対象となりはててしまったことと無関係ではないし、祈りはあきらめをひきずって歩く。 もう一度、云っておきたい。「殺すな」が「殺せ」に対する「非暴力無抵抗」「非暴力無行動」になり下がったとき「殺せ」は「無制限暴力行動」に自分を強め、ひろげる。これもまた自明のことだ。 もうひとつ大事なことがある。それは「殺すな」がつながる「平等」と「自決」は、自分の国のなかだけにかぎられたことではないということだ。「平等」と「自決」は国のうちそとにひろがる。」 小田実「「殺すな」から」(1976年) ——————————————————————————————————-