ひとつは、橋本大也の「逃げ場としての図書館」という話。逃げ場=アジールということでいえば、私もずいぶん図書館には助けられた。現実の物理的な空間であるにもかかわらず、そこに行けば現実社会の文脈から切り離されて人が自由になれるという機能は、本そのもの*1にもあるが、図書館というかたちで本が膨大に集まると、本のもつそうした力が集積されて、なんとも不思議な力をもつ。これは同じ本の集積体であっても書店にはない、本にフリーアクセスできる図書館(広義の「ライブラリー」)だけがもつ機能だろう。
私も大学で出版論、メディア論を教えるようになってから、そのような意味での図書館(ライブラリー)の重要性を話すようにしている。「スゴ本」の方が引用している橋本さんの発言、「情報による救済と癒しの場」「万人を迎え入れてくれて、放っておいてくれる場所」という意味での図書館を象徴しているのが、たとえば吉田秋生のマンガ「BANANA FISH」のラストシーンである。主人公のアッシュ・リンクスはニューヨーク公共図書館で息絶えるのだが、ニューヨークの不良ギャングたちのリーダーだった彼が唯一安らげる場所は、そこしかなかったということだろう。アッシュの「孤独」を物語る、見事な描写だと思った。
もうひとつ、私も反応したのが津田大介の「特定の情報に対するファンクラブ化」という話。著者とはコンテンツを生みだす人間であるというよりも、情報のネットワークのノードであり、編集主体である、ということだろう。そしてその周辺にファンクラブ、あるいは小林弘人の『新世紀メディア論』でいうところの「コミュニティ」が生まれる*2。これまでは、その仲立ち役を出版社や編集者が果たしていたけれど、いまでは力のある書き手は自分自身がメディアをもち(あるいは「メディアとなり」)、その周辺に情報の流れと、それを受け取ってともに考える人たちの「場」を生みだしている。
